多摩川下流川崎側、有吉堤百周年記念碑

 (公財)とうきゅう環境財団の機関誌『多摩川』2018年9月号は、「多摩川改修100周年に寄せて、アミガサ事件と有吉堤、多摩川直轄改修への道」と題する、国交省国土技術政策総研 和田一範博士の寄稿を掲載している。その中で紹介されている同事業の直接の契機となった有吉堤の、竣工百周年記念碑について、聊か縁のある一人としてご紹介します
 先ずは2016年10月30日有志により建立された有吉堤竣工百年の碑の写真、同寄稿掲載の多摩川堤防地図と記念碑左横の解説板の説明を並べます

 

(有吉堤竣工百年の碑・解説板)

 うしろの小高い道路が、有吉堤です。この道路、左手はその先の中丸子交差点を左折し、ガス橋手前で多摩川の堤防下に出ます。さらに橋を渡らずに進んで、天神台辺りまで続いていました。

 一方右手は、そのまま進んで、下沼部小学校横を通って上丸子方面へと達し、日枝神社近くまで延びていて、合わせて2.2kmほどになります。その有吉堤、百年前の大正5年(1916)に竣工しました。この代用堤防築造で尽力された有吉県知事の名をつけました。

 実は多摩川は、昔から大雨が降るたびに氾濫・洪水をひきおこす「あばれ川」でした。多くの田畑が水に浸かり、時には家まで水浸しになりました。明治40年(1907)、43年(1910)、と大水害が続き、家が流され、道路がくずされ、家までおし流されました。

 あいつぐ大水害に驚いた国は、全国65河川を直轄河川にして大改修にとりかかることにしました。ところが、戦争続きで財政事情が許さず、まず第一期河川の20河川を先行することにしたのです。ところが多摩川は残り第二期河川の45河川に組みこまれて、後回しになってしまいました。そこで大正3年(1914)、アミガサ事件が起こりました。国がだめなら県に頼もうと御幸、日吉、住吉、町田(現在の矢向)の四カ村民らが目印のチョンボリガサ(アミガサ)を付けて、神奈川県庁に「大挙陳情」を決行したのです。県知事は代表者だけと会い、しかも大勢できたことを説諭するありさまでした。

 この事件がきっかけとなって、多摩川築堤期成同盟会がつくられ、運動が右岸下流域の村々を巻き込んで広がりました。

 やがて有吉忠一県知事にかわると、すぐに実状調査が行われ、「道路改修に名を借りた代用堤防」という地元の要望が受け入れられ、県費負担で工事が始まったのです。工事には地元の人たちも、進んで参加しました。

 ところが、対岸東京側から激しい反対運動が起こりました。対岸に堤防ができると、地元の洪水がひどくなるといって、国に働きかけ、工事中止命令を出させたのです。しかし、有吉知事はいっとき、この命令を無視して築堤工事を続行しました。

 さらには、その後の国費半額負担(残りは県費負担)の多摩川改修工事にあたっても、二回にわたって県議会を開き、工事実現に尽力したのです。

 このような、アミガサ事件から始まって、有吉堤竣工にいたる、多摩川下流域住民の築堤にかけた願いは、間もなく実を結びました。国は大正6年(1917)、地元府県の半額負担を条件に、国費半額負担による多摩川改修工事を早めて行うことに決めたのです。

 この事業は大正7年(1918)に着工、十数年の歳月を要して、昭和9年3月(1934)に竣工しました。

 ところで、先の国からの中止命令無視で、有吉知事は始末書を書かされ、譴責処分を受けました。後年、この処分を「県民のために公利を計った」のだから、「名誉の譴責だ」と回顧しています。

  有吉堤竣工百年を記念して(文責・長島 保) 

2016(平成28)年10月30日

有吉堤竣工百年の会

 
 
 

 次にこの碑の位置を地図で示します。下の写真左のマップのA、JR南武線向河原と平間の間の多摩川から1本入ったバス道浄土宗無量寺(川崎七福神の寿老人のお寺)の前、中丸子児童公園の中にあります。実はこのバス道こそが往年の有吉堤なのです。左がマップ、右が無量寺の門(上)と本堂(下)です

   
 

 近くにもう一箇所記念碑が上左のマップB、ガス橋から平間駅へ通じるガス橋通りに面した平間八幡宮境内にあります。下の写真上段左右がお宮、下段左がその解説板で、同右がその文面です

   
   アミガサ事件集結の地

 1914(大正3)年9月16日のこと、野良着姿の一団が道を急いだ。麦飯のむすびを包んだ風呂敷をはすに背負い、申し合わせた通り、全員がアミガサを着けていた。出水の鶴見川を必死に渡り、厳しい警察の警戒線にもたじろがず、ひたすら県庁をめざした。

 一行が、ここ村社八幡大神の境内に集合したのは、未明の午前2時であった。長い間、「あばれ多摩川」の氾濫に苦しんできた、沿岸住民らが、築堤の早期実現を求めて、県庁への大挙陳情に決起したのだ。

 御幸村(中原・幸区)、ではここ村社に勢揃い、日吉村(中原区)では小倉の無量院に、住吉・町田村(中原区・幸区・鶴見区)では各鎮守に集合し、めざす横浜で合流することにした。この出来事、13の新聞に掲載されて、全国的ニュースとなったが、その参加者数、5百人とも、2千人とも報じられた。

 当時はまだ、大勢で行動することは許されなかったため、一行は県庁近くの横浜公園に集められてしまい、目ざす県庁には達することができず、各村の代表だけが知事との面会を許された。代表らは水害の苦難を口々に訴え、築堤の早期施工を強く嘆願した。

 しかし、県知事は「大挙陳情の不穏当」を説諭するだけで、今までの言い訳に終始し、何ら具体的回答を示さなかった。このようすを伝え聞いた一行は、知事の誠意ない態度に憤慨したものの、リーダーたちの説得になだめられ、あくまで築堤実現をめざして力を合わせようと励ましあって、それぞれ帰村することにした。

 その3日後、多摩川築堤期成同盟会が結成され、さらに築堤運動が活発に推し進められることになった。それはやがて、道路かさ上げの代用堤防となった有吉堤築堤を実現し、ついには国の本格的築堤工事を導いたのだ。

 以後、多摩川からは、1974年の狛江水害を除いて大水害は姿を消し、沿岸住民の悲願は、ここに達成された。

  2009年9月16日  アミガサ事件95周年を記念して

           八幡大神総代会 会長 加藤庄太郎

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