知られざる横浜トピックス
横浜ガイドは無数にありますが、余り知られていない特別のトピックスをご紹介します
はじめに浦島伝説を伝える浦島太郎のお寺です。横浜市神奈川区に浦島町という地名があり、古くから浦島太郎伝説を伝えています、先ず下の解説をお読み下さい
浦島伝説は日本各地、北は北海道湧別町から南は鹿児島県指宿市まで(名前は違うが似たような話では沖縄与那原町にも)28都道府県、海の無い長野、群馬、岐阜にまで残っていますが、横浜も遅くとも江戸時代からあったようです。
初めに上の解説にある神奈川区七島町の蓮法寺(京急子安駅近く国道1号沿い))です、下に地図で位置を示します
下6枚が蓮法寺で、上段左が国道1号上りから左へ入る参道(いい言葉ですね)、右が山門、中段左が解説板、右が山門越しの本堂、下段が解説板にある石塔と、太田唯助作の顕彰歌碑です
次に神奈川本町慶運寺(JR東神奈川駅南西)の位置を地図で示します
下8枚が慶運寺の写真で、上段左が入口全景、同右が右側の碑、第2段左がここが幕末の一時フランス領事館だった事を示す碑、同右が解説板(板左側の写真が蓮法寺のと違っています)、第3段左が浦島太良(郎)とその父浦島太夫の墓碑、同右と最下段左が浦島観音堂、最下段右が本堂です
下の写真上段が最寄りのJR東神奈川駅にある横浜港生糸貿易と横浜線開業の解説板と「日本の輸出貿易を支えた生糸と横浜線の誕生」と題した解説文の筆者による抜粋ですが、平成初年までは横浜線中山駅前にあった蕎麦屋に、もっと面白い『絹の道を往きは荷物を背負って、帰りはお金を懐に抱いて歩いた商人たちが途中の宿場女郎に騙されてお金をとられたり、峠で追いはぎに会って身ぐるみ剥がれたり(実は白粉を塗った追いはぎだった?)したので、鉄道敷設を請願した』という話が貼りだしてありました
中下段4枚は八王子市鑓水に今も残る絹の道史跡です、確かに追いはぎが出そうな場所ですね、右側2枚に鑓水道了尊跡の前にある「絹の道」の石碑を並べました
横浜開港翌年の1860年には、横浜港の輸出品目の65%を生糸が占め、その2年後には80%を超えていました。この様な背景の中、横浜では生糸貿易を生業とする大商人が誕生します。彼らは主に上州や信州を産地とする生糸の仕入れルートを開拓し、諸外国に輸出することで莫大な富を手に入れました。
同様に八王子もまた、生糸取引によって大いに賑わっていました。関東地方や信州で生産された生糸は一旦集荷されて横浜に運ばれてきましたが、この中継地点として大きな役割を担っていたのが、現在の八王子市鑓水であり、鑓水商人と呼ばれた豪商たちでした。 こうして八王子~横浜のルートは、日本の生糸貿易の中でも非常に大きな役割を担うようになり、現在では「絹の道」の愛称で呼ばれています。中でも当時の面影を色濃く残す部分は文化庁選定「歴史の道百選」にも選ばれています。 明治時代に入り、1872年に新橋~桜木町間で日本初の鉄道が開業すると、横浜と八王子の生糸貿易商たちは「絹の道」への鉄道開設に多大な関心を寄せ、国に対し鉄道開設の陳情をすることとなります。 まず1886年に横浜・原善三郎八王子・谷合弥七を代表とする13名の発起人が八王子~川崎間に「武蔵鉄道」を敷設申請しましたが、即却下されました。しかし、原善三郎ら横浜の生糸商人たちの思いは非常に熱く、1894年八王子~横浜間に「横浜鉄道株式会社」を設立することで鉄道敷設を申請、これも却下されたものの、以降1905年に認可されるまで計5度の申請を続けました。5度目の申請には、生糸資本家だけではなく、沿線である八王子、相模原、町田などの有力者が出資者に加わり、さらに国の買い上げにより将来国有化される事も受け入れるといった条件を付した上でのようやくの認可となりました。残念なことに、横浜鉄道敷設に絶大なる熱意を捧げた原善三郎はこの申請の時には既に亡くなっており、その孫娘の婿で、跡継ぎでもあった原富太郎(三渓)が出資者として名を連ねていました。富太郎(三渓)は善三郎と同じく生糸消として活躍し、一時は富岡製糸工場を所有するなどわが国有数の生糸業者になったほどの横浜を代表する人物でした。現在では三渓園の創始者としてもよく知られています。 このように横浜の生糸商人たちの熱い思いにより認可された横浜鉄道は5度(武蔵鉄道を含めれば6度)の申請の後、漸く認可されるにいたり、ついに1908年9月23日に東神奈川~八王子間で開業しました。その後国により買い上げられ、国鉄、JR横浜線として今日に至っています。 |
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平成元年に開通したベイブリッジは今やミナト横浜のシンボルになっていますが、そのベイブリッジが縦に見えるスポットを発見し、このHPでも紹介していますのでここに再録します
上段2枚がワシン坂の上、米国国務省の研修施設の近くからのアングルです、下段左はさらに後ろに引いて本牧山頂公園新井地区からですが、どうやら最近は遮るものが出来たようで見えません、貴重な写真です、同右は港の見える丘公園近代文学館手前からの普通に見える風景で対比のため載せました
次は超ポピュラーな赤煉瓦広場の一角ですが、見落としている人も多いと思うので載せました
左が香淳皇后の終戦直後米国からララ物資が送られた時の「ララの品つまれたる見て とつ国のあつき心に涙こぼしつ」、「あたたかきとつ国人の心つくし ゆめなわすれそ時はへぬとも」という二首の碑です、いささか複雑な思いはあります。右はすぐ傍のご存知海上保安庁の北朝鮮工作船の展示館で、ここはいつも大賑わいです