府中郷土の森の梅

 何度も行っているのにどういう訳かこれまでページがなかった府中の郷土の森の梅をまとめて載せます
 最寄り駅は南武線府中本町駅か京王線中河原駅ですが、筆者は南武線分倍河原駅から新田川緑道経由で歩くのが恒例で、表紙は左が分倍河原駅前広場の新田義貞公の銅像、右が新田川緑道入口に立つ分倍河原古戦場の碑で、義貞公のご子孫新田義美男爵の揮毫です

   

 すぐ下に園内マップを入れておきます、その下2枚が正門入って左手けやき並木の突き当り左にある旧島田薬品舗にこの時期飾られる古雛、左が令和2年、右が平成19年のです

 
   

 下2枚が梅園に入ってすぐの、旧役場や古い住宅が並ぶ一角で、野点などやっています

   

 ここから少し下ってせせらぎを渡ります、せせらぎの周りには山茱萸が咲いています(下4枚)

   
   

 せせらぎを渡ると左手に由緒ある石塔があり(下10枚の最上段左右)、平右衛門広場です。
 第2段に広場の名前の由来である、江戸時代このあたりの名主で農民のため多大な功績があり、最後は幕府の代官にまで取り立てられた郷土の誇り川崎平右衛門定孝の銅像(左)と解説(右)、第3,4段と最下段左がこの広場の色とりどりの梅ですが、皆いい形です。同右は平成19年に歩いていた昔懐かしいチンドン屋です、その右の梅はやや緑がかっている珍しい種類の梅です

   
   解説

 元禄7(1694)に押立村(現府中市押立町)に生まれた川崎平右衛門定孝は、同村の名主として積極的に新田開発や多摩川の治水に取り組む一方で、私財を投じて近郷の窮民を救ったといわれています。この功績に対し幕府より大岡越前守を通じて下賜されたサンシュユの苗木を新田村の名主等に分け与えたと伝えられます。後に平右衛門は幕府代官として、岐阜での治水事業や島根県石見銀山の採鉱事業に大きな業績を残し、各地で人々から敬慕されました。一介の農民から幕府財政をつかさどる勘定所の要職にまで昇進を果たし、明和4(1767)に江戸で73歳の生涯を終えました。農民の立場に立ち救済策を実行した平右衛門をたたえ、府中市郷土の森博物館には銅像が建立されています。

   
   
   

 階段を登って川沿いの広い梅林に辿り着きます(下10枚)、行きつ戻りつ散策する雰囲気をお楽しみ下さい。最下段2枚は福寿草です

   
   
   
   
   

 最後に8枚、先ず最上段左右は公園一番奥(多摩川側)のロウバイの小径、第2段左が滝、以下はその他の場所で形の気に入った単品、内最下段2枚は紅白の枝垂れです

   
   
   
   

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