和泉川・境川沿岸社寺、お屋敷巡りと海軍通り

 このページには神奈川県境川左岸支流和泉川沿いと、本川境川上流の瀬谷区中屋敷の新緑の社寺、お屋敷巡りを載せます、先ず相鉄いずみ野線・横浜地下鉄ブルーライン各終点、小田急江ノ島線の湘南台駅から東へ、境川を渡り、いずみ野線に沿う感じで終点一つ手前のゆめが丘駅を通り過ぎます。先ず横浜環状4号線を渡って和泉川へ下る途中左手の浄土宗宝心寺から始めます
 下4段、最上段に縁起を写し、第2段左の入口から、同右、第3段左の本堂、同右の庫裏、最下段左が岩舟地蔵堂、同右が鐘楼です

 宝心寺には江戸時代の和泉村領主松平氏の墓があります。松平氏の先祖の光親(みつちか)が三河国額田郡能見に住んだことから能見松平を名乗り、その6代目が和泉村領主松平昌吉(まさよし)です。松平は徳川家に仕え、後に2000石余の領地を与えられました。旗本になった昌吉は慶安4年、和泉村に菩提寺として宝心寺を創建し、父昌利(まさとし)の墓を改葬して以後松平家の墓としました。

 境内には、岩舟地蔵、廻化地蔵、大山道道標になっている庚申塔があり、また明治初期には和泉学校が置かれました。(泉区役所)  

   
   
   

 宝心寺を出てさらに下って行くと間もなく和泉川へ出ます。川沿いの遊歩道を左(上流)へ歩いて行くと、左岸に下6段最上段左右の様な立派なお屋敷が並んでいます、多分この辺昔は豊かな農村だった(『我が郷土神奈川県』による)ので、当時の豪農のご子孫でしょう。その少し上流同じ側にあるのが泉小次郎ゆかりの長福寺です。第2段に縁起を写します
 第3段左の看板のある路地を入って同右の山門を潜り、第4段左が本堂、同右が庫裏、第5段左が山門左(入口から見て)にある縁起と泉小次郎の板碑、同右最下段左が庫裏の前から振り返る本堂、同右が山門手前左の須賀神社参道です

   

長福寺の歴史―伝承泉小次郎親衡縁起:長福寺の歴史を遡るに鎌倉時代、泉小次郎親衡の創建堂道場と伝う。開山は大覚禅師の法弟・宝山円印禅師なり。中興の祖は、円覚寺百二世大雅省音禅師にて、応永年(1395年)開創以来、法灯連綿として今日に至る。

泉小次郎親衡は信濃の国上田市小泉の住人にして信濃源氏の嫡流なり。建歴3年(1213年)2代将軍源頼家の遺児千寿を擁して、執権北条家打倒(源氏再興)を企てるも事前に発覚し追手を討ちて行方をくらます。小次郎と意を同じくする越後・伊勢・下総の衆3百3十余名に及ぶ。この泉親衡の乱が口火となり、侍所別当和田義盛の乱起こり、北条体制に不満を持つ相模武士団が挙兵する(吾妻鑑より)

泉小次郎の行方については施設あるも、唯一川越市最明寺縁起に鎌倉退出後諸国を転々とした後、武蔵の国三芳野(川越市)の豊田源兵衛を頼り、千寿と共に出家、名を静海と改め文永2年(1265年)88歳で没す。現在川越市小ヶ谷の墓所は戸泉氏を名乗る25代当主守れり。

当寺裏山中央公園には、小次郎館跡・馬洗いの池と呼ばれる史跡あり。また隣接の須賀神社に守護神を奉斎、鬼門除けに神明社、守り本尊として滝の前不動尊を勧請したとの伝承あり。

ここに祀りし板碑は南北朝時代の墓石で豪族や武士が供養の為建立せしものにて古き歴史を物語る。

この度長福寺開創6百年を迎えるに当たり泉小次郎親衡の伝承を記すと共に有縁、無縁三界万霊安らかならん事を祈念するものなり。(資料提供いすみ郷土を知る会)

平成5年6月吉日                                     天王山 長福禅寺

   
   
   
   

 長福寺を出て再び和泉川を遡り、いずみ中央駅を過ぎて総合運動場を抜けて北上を続け、線路がほぼ直角に右に曲がっている下を潜って宮西橋のところを右折、八幡神社(下6枚上段左右)にお参りしてから北東方向に取り、東電の大きな変電所の北側を抜けてから細い田舎道を下り、せせらぎの小径を辿って新橋交差点で瀬谷柏尾道路を横切ります。その先阿久和川を左(上流)に遡って間もなく右手に中丸屋敷長屋門(中下段)、まだ人が住んでおられるようなので、中へは入りません。さらに川を遡ると左手に観音寺入口が見えます

   
   
   

 下8段が観音寺で、最上段に縁起を写し、第2段左の参道から、同右山門、第3段左本堂、同右振り返る、第4段左本堂右から、同右観音石像越しの鐘楼、第5段左右本堂右手の植え込みにある微笑ましいお坊さんの親子像と珍しい花、第6段左右が本堂釈迦如来像と金剛力士、第7段左右が本堂裏手の観音堂入口、最下段左が観音堂、同右が山門左手の地蔵堂です
 縁起で判ったのですが、明治時代の一時この辺は鎌倉郡だったのです

曹洞宗観音禅寺:阿久和山と号し、本尊に聖観世音菩薩を安置、開基は徳川の旗本安藤治右衛門正珍(まさよし)。正珍は祖父定次、父正次共に京都、伏見、関ヶ原等の戦いにおいて功多かったため、阿久和村を知行地として下賜された。当寺は元和元年、安藤家先祖の冥福を祈る為建立され、安藤家代々の守本尊聖観世音菩薩を本尊として安置した。行基の作と伝えられ、楠一木造りで隠れたる弘仁期の仏像と言われ、33年目ごとに御開帳する秘仏である。鎌倉郡史によると鎌倉23番札所として観音信仰の札所とされていた。

   
   
   
   
   
   
   

 最後下左が和泉川の亀、右が観音寺から緑園都市駅へ歩く途中の天満宮です

   

 上の探訪で郷土史づいたためか、数年前に瀬谷八福神巡りで歩いた同区中屋敷のお屋敷を載せたいと、田園都市線南町田からスタートし境川を下りました。次の8枚最上段左の城を右手に見て川を下り続け、246を渡って瀬谷区に入ると川を離れ左手の竹村町に入り、元紡績工場だった特別支援学校前にある善昌寺(同右)に参拝し、中屋敷1丁目の昔の面影を残す古いお屋敷街の細道を登って行きます。第2段以下にある様な今でも現役のお屋敷が通りすがりに見ただけでも4,5ありますが、中でも目を惹くのが第3段の瀬谷銀行跡の小島邸です。明治時代この辺は養蚕で栄え、大金持ちが誕生したそうですが、この中でも中心だった小島政五郎氏が、明治40年瀬谷銀行を自宅敷地に創設し、30年間にわたり地域金融に貢献したそうです

   
   
   
   

 再び川沿いに戻り、下って相鉄の線路を渡り、その先の深見神社(次3段の上段に縁起を写し、中段左右に写真)、浄土宗仏導寺(下段左右)へ参拝してから線路沿いに瀬谷駅へ出て上がりです

 我国の神社総覧とでもいう記録で最も古いのは延長5年(927)に奏進された「延喜式」神名帳である

 これに記載されている神社を延喜式内社と呼びならわし古社であることを意味し当神社も延喜式内社で相模国に13座ある内の1座である

 創建年代と御祭神は「総国風土記」によれば「相模国深見神社雄略天皇22年3月(約一千五百年前)に祭るところ闇龗神(くらおずみのかみ)なりと記されている 

 神社縁起によれば「武甕槌神東国鎮撫のため常陸鹿島に在られしとき船師を率いてここに進軍され伊弉諾神の御子の倉稲魂神(うかのみたまのかみ)と闇龗神の2神をして深海を治めさせられた 闇龗神(雨神)は美田を拓き土人を撫して郷を開かれた」とある 即ち深見の名の起こった所以である

 後世徳川時代になると深見は旗本坂本家の知行となり坂本家の崇敬する鹿島神宮(武甕槌神)から分霊を受けて従来から祀られていた闇龗神は境にある御倉稲荷神社に合祀された

 以来深見神社の祭神は武甕槌神(武運長久)となった

 平成24年3月現社殿再建70周年を節目として 創建時の御祭神の闇龗神を本殿に合祀した

 明治9年火災により社殿工作物など悉く消失

 明治42年 末社の諏訪神社(建御名方神)合祀

 昭和17年3月現在の社殿再建  

   
   

 おまけに瀬谷駅に北側から突き当る海軍通り(上段左右)と沿線の旧上瀬谷通信隊返還地(中、下段)を載せます中段右の「タヌキに注意」が笑えます

   
   
   

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