飯能天覧山・多峯主山史跡巡り

 

 季節外れに暖かかった3月中旬、何度か歩いている飯能の天覧山、多峯主山をじっくり史跡の案内板を読みながらゆっくり歩いてみました。このページでは各所案内板の文言を読み取って転写、入れていますので写真と併せてお読み下さい。
 上のマップの赤線の順路で飯能駅から観音寺、能仁寺、天覧山、見返り坂、雨乞池、黒田直邦侯の墓、多峯主山、御嶽八幡神社の順で歩き、吾妻峡方面との分岐に下りてからはマップ青線で駅へ直帰です。
 先ずは天覧山への途中、飯能河原交差点傍、駅から15分程の観音寺です

 般若山長寿院観音寺は真言宗の寺で、市街地の中の寺として親しまれ、江戸時代)(文化・文政期ごろ)には高麗郡33か所霊場の10番札所として庶民の信仰をあつめた。「法の音幾世絶えせず仰ぐらん百の願の人のこころよ」という巡礼御詠歌も残されている。
 如意輪観世音を本尊としているが、西国33番、坂東33番、秩父34番観音堂の各御本尊の写しを合わせた百観音も本堂に安置されている。

 
また境内には、文殊菩薩・不動明王・毘沙門天・大歓喜天・荼枳尼天・弁財天・大黒天・寿老人・布袋尊などもまつられており、特に、天狗地蔵は幼児のすこやかな成長を祈る人たちの信仰が厚い
 
堂内の建物は、慶応4年5月に起こった「飯能戦争」によってことごとく焼失したが、明治16年に再建された。境内には、鎌倉期のものといわれる5輪の塔や板碑がある。また俳聖芭蕉や水原秋桜子の句碑もある。

   
   

 観音寺門前を出て左へ進み能仁寺・天覧山の道標に従って最初の角を左へ曲がると左手が中央公園、ここを交差点渡って直進すると能仁寺の東参道入口、左へ入りお参りしていきます

室町中期文亀元年 (1501年)、飯能の武将中山家勝が名僧斧屋文達師を招いて小庵を結んだのが始まりとされており、家勝の子・家範が父の冥福を祈るために寺院を創建した。・家範の子・照守は徳川家康に引き立てられ、徳川家康の庇護のもと多くの雲水をかかえる寺院に発展した。
・中山家範没後百年ほど経って、老朽化してきた寺堂を再建したのは黒田直邦である。徳川綱吉の館林時代の家老職にあった直邦は、十三世住職泰州廣基と供に、将軍家の後ろ盾により、宝永二年に山門、大殿、庫裡と改修を行い、伽藍を完成させた。また、今も本堂正面に修飾されている。
・明治維新時の飯能を舞台とする 「飯能戦争」 では、幕臣の一部で結成された彰義隊の頭取であった渋沢誠一郎は内部対立のため振武軍を結成し、能仁寺を本陣とした。慶応四年 (1868年) に官軍の一方的な攻撃により敗走、多くの民家や、本陣であった能仁寺も焼失し、本堂は昭和十一年に再建された。その後五十一年より復興を続け、現在では、山門、位牌堂、大書院、鐘楼、大庫院が完成している。
本堂北庭として保存されている『池泉鑑賞蓬莱庭園』は面積324坪。天覧山の南急斜面を巧みに取り入れて、背後に枯滝を組み、下部を池泉とした上下二段式庭園の典型的なもの。築山、亀島、鶴島、石橋、洞窟などを備え、池は底部が全て20cm前後の玉石で固められるなど幾多の傑出した手法や造形を見せていることで桃山時代の作庭と推定され、日本名園百選に入っており、東日本の代表的な名園として、貴重な存在であるとともに、飯能の文化財としても誇れるものの一つ。

   
   

 能仁寺参拝を済ませたら元の東参道入口へ戻って、左手斜面を登り、道なりに左へ廻り込むと次の4枚上段左の天覧山中段広場(冒頭マップの現在地)、ここを横切って進むと道が二手に分岐するが、左へ取るとこの山の元の名前の由来の16羅漢(上段右と下段左)、その先を右に回り込んで岩場を登る(下段右)

   
   

 岩場を登り切ると天覧山山頂。上段左が東京都心方面で、以下時計回りで秩父連峰が見える。下段右が山頂で、茂みの奥に明治天皇の行幸記念碑がある

   
   

天覧山は、海抜194.6m。市街地西北部に位置し、春はつtじ、櫻、秋は紅葉また冬ともなれば松の緑に映える翌景色等、その勝景は、広く天下に知られている。
この山は、山麓にある能仁寺の守護神である愛宕権現を祀ってあるところから愛宕山と呼ばれていたが、元禄年間徳川5代将軍綱吉公生母、桂昌院が納めたといわれる羅漢像の石仏にちなんで、長い間「羅漢山」と呼ばれていた。
明治16年、山麓で行なわれた近衛兵春季小演習に際し明治天皇お野立所となったおり、天皇が「よき景色じゃ」と仰った。これを記念して天覧山と呼ばれるようになり、行幸記念碑が建てられている。
 頂上には、角岩が露出し、鏡岩、獅子岩等の奇岩が登山者の目をたのしませてくれる。
展望台に立てば関東平野が一望にひらけ、秩父連峰、奥多摩の山々、はるかに富士山を望むことができる。
山容の美しさに加えて、山麓には名刹能仁寺はじめ、詩壇の特異な存在であった蔵原伸二郎文学碑、明治時代の飯能地方の教育家堀内堅之助遺徳碑、江戸末期の学者、藤規矩庵の墓碑、源氏物語の現代誤訳をはじめ、広く国語、国文学会に貢献された文学博士、五十嵐力夫妻の墓、小川香魚父子の碑などがある。また慶応4年、官軍に抗戦して幕府の恩に報いようとした振武軍の碑、飯能地区戦没者の忠霊塔などがある。  

 反対側へ下り、道へ出たら右へ、湿地帯を横切って道なりに左へ登るのが見返り坂、飯能笹が生えている。坂を登り切ると暫く緩やかな道で、最下段左が何度か通った高麗方面への分岐、同右が山頂直下の分岐で、右手が山頂へ直登、左が雨乞池、黒田直邦侯墓所経由ルート、今日は左へ行きます

   

見返り坂は、源義経の母、常盤御前がこの山に登った時、あまりの風景のよさに後ろを振り返り、振り返り登ったことによりこの名がついたといわれている。
 この見返り坂の麓に、植物学者故牧野富太郎博士により発見され、命名された飯能笹の植生がある。
この笹は、アズマザサの仲間で根茎は横に走り、茎はこげ茶色をして真っ直ぐ立ち、高さは150㎝前後、直径0.6cmほどにとなる。茎の上部で枝が分かれ、枝の端には手のひらをひろげたように数枚の葉が集まってついている。葉は細長く、長さ13~20cm、幅2cm内外で先はとがっている。質は薄い洋紙質で表面は毛が無く、裏面にはビロード上の細毛がある。中央の脈は細く裏面に隆起しており、この両側に5~8本の脈をもっていて、冬季に葉のふちは白色となる。一見普通の笹のようにみえるが、幹の色、枝の出方などに特色がる。 繁殖力はさほどなく、古くからこの地にのみ限られて生えている。

   

 よし竹(中段左)と雨乞池(同右、下段左。下段右は下の黒田直邦侯墓所への階段から振り返る)。池の右手へ登って行く(上段右の木段)。因みに池の左へ進むと常盤平

  常盤御前が多峯主山に登った時の伝説で夢の様に過ぎ去った我が世の春を思い出し“源氏再び栄えるならこの杖よ竹となれ”といって突いてきた竹杖を地に立て、それが根づき一面の竹林をなしたといわれている。 
 今この道の上や下に僅かに残っているのがその名残りで竹を「よし竹」と呼んでいる。  

 この池を雨乞池または雨乞渕という。こんな山頂にありながら、かつて水の枯れたことのない池である。
古くはこの上手に、高龗・闇龗(たかおかみ・こうおかみ、雨をつかさどる神として古来祈雨・止雨の神)がまつってあって、近郷の人たちの信仰が厚かった。
 田畑の作物が枯れるような旱天が続くとここに集まって、神に雨を乞い、池のまわりでにぎやかにお祭りをしたという。「この水を濁すと雨が降る」といい、また、鼻をつまみ息を止めて七廻りすると、池の中に異変がおこるといったような伝説もある。
   
   

 池のすぐ右上が黒田直邦侯の墓所(左)、ここを出るとすぐ右の分岐で右がすぐ多峯主山山頂、左が下りルート御嶽八幡神社・吾妻峡方面

 この地は江戸時代に飯能地方を領していた黒田氏の祖、直邦侯を葬るものである。侯は丹党武人中山氏の出であるが、外祖父黒田直相に養われてその姓を名乗り、黒田を称した。墓銘に「丹治直人」と丹党のの姓が記されている。侯は若い頃、5代将軍綱吉に出仕して30人扶持を拝した。これが官に仕えたはじめで、以後8代将軍吉宗に至るまで、実に450余年も歴任し、信任厚く、進級に進級を重ねて、ついに侍従となり老職となり、出でては上州上田3万石の大名となった。 侯が飯能地方を領したのは宝承4年(1707年)以降である、そして享保20年(1735年)70歳でなくなったが、世嗣直純は、祖先ゆかりの地飯能に墓所を求め、霊場多峯主を選んで懇ろに葬り、永く一族領内の鎮めとしたものである。なお黒田氏は2代直純のとき上総久留里城主に転じ、飯能地方の領主に変わりなく明治維新に及んだ。黒田氏歴世の墓は能仁寺墓地にある。 

   

 天覧山から35分弱で多峯主山山頂。経塚と解説案内板があり、270度の展望が楽しめます。解説の下第2段が南側東京都心から丹沢方面にかけてのパノラマ、第3段左が奥多摩方面、同右が山頂の経塚、第4段が山頂の向こう側北側の秩父方面のパノラマ、最下段左が奥多摩の主峰大岳山アップ、同右が木の間越しに東側日高方面です

 多峯主山は天覧山の北西にあり、海抜271mの山で頂上に3等三角点がある文字どおりこのあたりの山ではひときわ高く、登り口には、県指定天然記念物の飯能笹が自生しており、またにまつわる「見返り坂」や「よし竹」の伝説がある。
 「よし竹」は常盤御前がこの山に登りながら「源氏再び栄えるならこの杖よ竹となれ」といって持っていた竹杖を地に立てたところ、それが根づいて一面の竹林をなしたといわれ、今日でもわずかながらよし竹と呼ばれる竹の植生がある。
 「常盤が丘」には常盤御前の墓があったといわれ、宝篋印塔がある。その近くに「常盤平」と呼ばれている眺めのよい場所がある。

 中腹にはいまだ一度も水の枯れたことのないといわれている「雨乞池」、頂上近くには、郷土の武将上州沼田城主の黒田直邦の墓がある。

 山頂にある経塚は、医師に経文を書いて土の中に埋めた塚で、岩石を釜底形に掘った穴に約12千個の河原石が埋蔵されており、明和2年(1765年)の年号が刻まれた石造供養塔が建っている。

 
   
 
   

 山頂での眺望を堪能したら、先程の分岐へ戻り直進、御嶽八幡神社(次の最上段左右と第2段左)を経て、脳天逆落としの急な木段(第2段右)を下り、第4段左右、最下段左の様な帰路を経て最下段右の一の鳥居(吾妻峡分岐)へ出る(山頂から30分弱)。右へ取れば吾妻峡だが、この日は時間が遅かったので駅へ直行(冒頭マップの青線)、飯能駅までゆっくり歩いて30分程度。
 今回はいつものかち歩きを止め、郷土史の勉強をしました

   
   

 御嶽八幡神社は通称「おんたけさん」といい、誉田別命、大山昨命、大巳貴命、少彦名命が祀られている。創立年代は不明である。多峯主山の全面にあって、一大岸壁の突き立つところを前岩と呼んでいるが、ここに古くから小社が鎮座し、多峯主山一面の守りをなしていた。
 江戸時代の末期に与平という人が、かねてから琴平宮を屋敷内に祀り、ひそかに信仰していた。当時この山一帯は、黒田氏の領地で飯能村寄合名主の大河原氏が領主の委任を受けて管理していた。与平は大河原氏の依頼によって曽根刈りなど山仕事に当たっていたが、ある日、前岩付近で昼寝をして目がさめてみるといつの間にか山麓にころげおちていた。不思議に思った与平は、この山に琴平宮を祀ることに決心し、百余段の階段を築き、一族とともに参拝したといわれている。 明治の初め、御嶽教がさかんになり、芝田開元という人が中心となって、名主大河原又右衛門とはかり、信州の御嶽神社の分霊を安置、同時に講をおこした。その後明治40年、武人八幡を合祀し、御嶽神社を改めて御嶽八幡神社と改称した。産土神として信仰が厚い。 

   
   

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