世相・時事問題の随想集

 このページには世相や時事問題に関するエッセーを並べます

 

ビッグモーター事件の深い闇

 今回のビッグモーター事件は、パワハラとか、除草剤散布による街路樹枯れなど色々な尾ひれがついて特定個社のスキャンダルとして面白おかしく報道されているが、はたしてそれだけの話なのだろうか。実はその根底に戦前以来の歴史に由来する損保業界の慣行、これを踏まえた関連行政や料率算定制度などの制度的要因が渦巻いているのではないかとの感想を禁じ得ない。

 昭和末期から平成初年にかけての日米金融摩擦の最後に登場したのが日米保険協議だった。「ミスター円」との異名で知られる榊原英資大蔵省(現在の財務省)財務官の活躍で合意し、今日の制度の基礎となっているが、当時、公正取引委員会の事務最高責任者が「損保業界はゼネコン以上のカルテルだ」と吐き捨てるように語っていたのが忘れられない。

 今回のビッグモーターの例で言えば、同社は一方で自動車保険(強制・任意双方)の支払いを受ける指定修理業者の立場にありながら、他方で保険業者の保険代理店という立場にもあり、いわば双方代理的立場にある。これは全国で行われている当然の慣行だ(蛇足ながら損保業界では代理店制度、生保業界では「ニッセイのおばちゃん」が日本保険業界のガラパゴスだった)。

 そうした中で、依然として事実上法定カルテル状況にある損保各社としては儲かる自動車保険のシェア拡大が至上命題で、そのためには多少の不正請求に目はつぶっても、保険代理店であるビッグモーターに自社の保険を売って貰いたいという癒着関係が生まれるのは必然である。過大請求による損失は、現行の料率算定制度の下でいずれ事故率の上昇という形で保険料率引き上げに反映され、長い目では回復できる。損をするのは自動車保険加入者だけという腐敗の構造である。この根本的構造にメスを入れず、社会部ネタで終わるなら同種の不正は形を変えて続くだろう。
 (金融ファクシミリ新聞2023年8月9日号政経論風原稿)


 

                          台風19号多摩川水害の教訓 
 
昨年10月12日の台風19号で、本川堤防の容量と強度はあの豪雨にも耐えられた多摩川の下流域両岸の住宅密集地で広汎な浸水被害が起こった。筆者は台風数日後から、左岸の大田・世田谷区境周辺、右岸丸子橋下流の有名になった武蔵小杉タワーマンション辺りを歩いて、深刻な課題を感じとった。   
 まだ十分な原因究明はされてはいないが、断片的な各種報道と現地被害状況、被災現場での話を総合して、浸水の原因が箇所ごとに多様なことを感じた。左岸二子玉川上流部分は一部無堤区間で、ここから本川の水が越流したのだから、これは判り易く、対策も明瞭である。厄介なのはその他の地域の内水氾濫で、態様・原因が箇所ごとに区々であり、それに応じて必要な対策も異なることから、将来に深刻、多様な課題を投げかけている。
 内水氾濫のひとつの形態は、本川の水位が、流入する支川や下水路より高くなり、締め切る水門が不備だったり、要員がいなくて締め切られなかったりした結果本川の水が逆流したというもので、武蔵小杉周辺は大体このパターンらしく、本川への流入口ごとに被害の爪痕があった。もう一つは水門を閉めた結果、行き場のない水が溢れるというもので、理想的にはポンプで支川の水を排水すべきなのだが、ポンプがないところ、あっても使えなかったところもあった。さらに本川の水位が低下したら速やかに水門を開けて排水すべきなのに、操作要員が不在で長時間水門が閉まった結果、内水氾濫被害が甚大化したという大田・世田谷区境の例も話題となった。本川堤防、河川敷、支川や下水路、水門、ポンプといった河川管理施設ごとに管理者が国、都県、市区と異なり相互の連絡が不十分であったことも指摘されている。
 水門・ポンプ等ハード面の整備もさることながら、それ以上に適切な水門操作、要員配置などソフト面での対策と、国・都県・市区をまたがる総合的な体制整備が喫緊の課題だとの手痛い教訓あり、これを2020年に生かす必要がある。

 (週刊「金融財政事情2020年1月13日号掲載の巻末匿名コラム「豆電球」「台風19号の教訓を2020年に生かせ」の原稿)


 

 便利さの裏のリスク

 個人的体験だが、かつて政策研究大学院大学等で客員教授として講義していた頃、ホームページが欲しいが独力ではつくれず、メール・プロバイダーの「らくらくホームページサービス」というのに飛びついた。自分でHP作成ソフトを持たなくても、プロバイダーの編集画面にインターネット経由で入力するとHPとなって公開できるという便利なサービスである。

上手に使えば結構多くのコンテンツを載せられたので、6年余りかけて90メガと、結構盛り沢山のHPを作成し、講義で使った経済や財政金融等の図表・グラフと論文の要約、随想、それに趣味のウォーキングで撮った海や山の景色、季節の花などの写真を載せ公開し、重宝していた。

 ところが、昨年11月、突然、1ヶ月後にらくらくサービスを終了するという通告が来た。HPを継続したいのなら、一旦自分のPCに取り込んで編集し直し、あらためてサーバーに送れという。ところが、肝心の編集し直す点については、「HP作成の入門書を読め」という以外何の説明も無い。一方入門書は、新しく作ることは親切に解説しているが、既に「らくらく」で作ったものをどうするかなどという特殊事例は、当然ながら全く書いてない。筆者の場合は幸運にも、その道のプロの同僚が一生懸命研究して、結構込み入った解決策を探してくれたので救われたが、そうでなければ、ゼロから作り直す破目になっていただろう。

この個人的体験は、実は今日のIT利用上の重大な教訓を含んでいる。昨今のITビジネスで、ASP、SaaS等、クラウド・コンピューティングといわれるサービスが広がっている。利用者自身がアプリケーションを持たなくても、アプリケーション提供を事業とする会社と契約してデータさえ打ち込めば、会計、人事、顧客管理、金融機関の勘定系システムなど様々な処理をして、雲の中から結果を返してくれるというビジネス・モデルである。利用者の側からすれば、自前のシステム関係人員が節約でき、システム更新の苦労も無く、提供者の側からは有望なビジネス・チャンスであり、社会全体としては、個社毎の二重投資を避けて集中的な良質サービス提供が促進されるという一石三鳥である。はるかにマイナーながら「らくらくホームぺージ」も、SaaSの一種だといえよう。

 しかしこれは便利には違いないが、企業にとって重要なITサービスを外部に依存することになるので、提供者側の都合や倒産などでそのサービス提供に支障が出たり、打ち切られたりするリスクがある。利用者側にサービスの内容について必要な技術的知識があれば対応できようが、ブラックボックスで利用だけしているのだと、その日から事業継続そのものに支障を来たすことになりかねない。便利なサービスに依存するのはよいが、依存する以上は、万一その提供が途絶えても最低限自ら対応出来るだけの備えが不可欠だ、との教訓である。

      (週刊「金融財政事情」2009年3月30日号「時論」)


 

アラン・ブラインダーの警告

 些か旧聞に属するが、1996年1月、米国連邦準備制度理事会副議長だったアラン・ブラインダー(現プリンストン大学教授)が不本意な形で退任した折、当時のクリントン大統領に宛てた辞意表明の書簡中に、万感の思いのこもった一節がある。 同年2月のFRB月報から引用すると、
“A nation that routinely denigrates its public servants, and makes public service as unpleasant as possible, may soon find itself with the kind of government it has tacitly asked for. It pains me to think that my own country may be becoming such a nation.”
(筆者仮訳;「公務員を日常的に誹謗し、公務をこの上なく不愉快なものにしている国は、いずれそうした評価にふさわしい類(たぐい)の政府しか持てなくなるのではないでしょうか。 私は自分の国がそんな国になりつつあるのではないかと思うと、心が痛みます。」)
英語の表現として“ tacitly(暗々裏に) asked for”というのが面白い。子供に「お前は駄目だ、駄目だ」と言い続けているとその通りの子になってしまう、という話だろう。
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 この10数年来我国では、「悪いのは官、官僚は悪者」といわんばかりのワンパターンな官僚バッシングの風潮が蔓延している。確かに年金問題、防衛省事件など弁解の余地の無い事例も多々あった。でも本当に常に官は民に劣っていたのだろうか。金融分野について振り返って見たい。
 総選挙で圧倒的な国民の支持を受け既に実施されている郵政民営化について、今更是非を論ずる積りはない。ただ、なぜ郵政民営化にあれだけの歳月と破壊的とまでいうべきエネルギーを要したのか。それは「郵貯は親切、銀行はサービス悪い」という利用者の声が普遍的だったからである。その上、本来効率的なはずの民間金融機関は、自らの自由な経営の結果バブルを引き起こし、その後始末たる不良債権処理のため、あの(官業の弊害をすべて具現したような)国鉄の清算に匹敵する10兆円単位の国民負担を強いた。一方郵貯は将来数兆円の株式売却収入で国庫を潤すだろう。その限りでは民間金融機関は、サービス面でも経済効率においても官業たる郵貯に劣っていたといわれても仕方あるまい。
 金融自由化についても、「日本の金利自由化は公的金利が牽引した」。「まさか」といわれそうだが、紛れも無い歴史的真実である。
 日本国債は、昭和41年1月の発行開始以来長きにわたり、売却制限と人為的低金利から、「御用金」とまで酷評されてきた。しかし50年度の大量発行以来、悪名高いロクイチ国債騒動など幾多の局面を経て、その都度引受シンジケート団側の力が強まり、先ず売却制限が段階的に緩和されていった。筆者が旧大蔵省の国債課長になった59年当時は3ヶ月間にまで短縮されていたが、2年間の在任中には国債ディーリングも始まり、61年4月にはとうとう事実上撤廃された。大量発行と売却制限の緩和は必然的に流通市場を急拡大し、市場原理に基づく流通価格が形成されるようになっていった。そうなるとこれと乖離した条件での新発債発行は強行できなくなり、発行条件の合意整わず月次の発行が出来ない、いわゆる「休債」が頻発した。56年6月に始まり、7、8月、57年7月、58年2,7月、59年6,7月と8回あった。

 これは俗に、金利負担抑制という財政の論理と市場重視の金融の論理との衝突という構図で捉えられているが、正しくない。既にこの頃の財政当局にとっては大量の国債を円滑に消化することが最大関心事であり、無理に金利を抑え込もうという発想は薄くなっていた。国債発行条件を硬直化させていたのは、当時の規制金利の体系の下での景気対策上の配慮であった。先ず「長期金利の中核たる」10年国債発行条件が決まると、そのクーポン金利と同一に5年利付金融債金利が設定され、これに0.9%という硬直的スプレッドを乗せたものが長期貸出プライムレートとなる。他の債券金利も需給とは無関係にこれとのバランスで整然と決まる、という旧興銀を中心とする起債調整システムであった。この硬直的金利体系の下では、国債自体の需給から国債金利を引き上げたくても、景気対策上の配慮からの「この時期に長プラ引上げを齎すなんてとんでもない」との声に抗せず、やむを得ず休債に追い込まれたのである。
 筆者は就任直後の昭和59年8月債の条件決定時、国債金利が長期金利の中核であるべしという空虚な名誉を返上、先に利付金融債金利を(自動的に長プラも)据置きで決定させ、その後で国債金利を自由に引き上げた。コロンブスの卵的発想で実現した、世にいう「金国分離」である。こうして長プラの足枷から解放された国債発行金利は、その後約1年余りの実績で市場実勢追随というルール、すなわち完全自由化を、他の金利に先駆けて確立した。62年3月には、資金運用部資金法が改正され、もう一つの重要な公的金利である預託金利(=財投貸付金利)も自由化された(こちらは残念ながら年金への配慮から一時的措置として導入した0.2%の国債金利への上乗せという不完全さが残ったが)。  
 これがその後の預金金利など金利全般の自由化を推進する原動力となった。「かつての御用金が自由化の尖兵」という歴史の皮肉である。それにしても預金金利の自由化は、民間金融機関との妥協から、60年10月の大口預金金利自由化から平成6年10月まで実に9年かかって漸進的に進められ、この間長期に渡り自由金利と規制金利の並存が続いた。その歪みは周知の通り様々な禍根を残した。
 さらに付け加えれば、短期金融市場の中核商品として日米円ドル委員会でも導入が求められ、難産の末61年1月誕生した短期国債についても、最後まで反対したのは銀行業界だった。5年利付国債に至っては、長信銀の抵抗で平成11年度まで導入できなかった。金融業務の自由化や、金融機関リスク管理の強化などに関しても、西村吉正早稲田大学教授が、労作「日本の金融制度改革」(2003年 東洋経済)中で、淡々とした筆致の内にも無念さを滲ませておられる通り、金融効率化に向けた改革努力はしばしば金融業界の抵抗(証券業界の方は、動機が自業界の権益拡大にあったにせよ、銀行よりは改革に積極的であったが)で中途半端なものに止まった。官が先先を見据えて中長期的国益から提案した改革に対し、民が近視眼的既得権益確保のため抵抗したというのが我国金融分野での官と民の構図だったのではなかろうか。
 もとより官が常に正しいとか、民より優れているとか言う積りはない。客観的かつ公正に評価して欲しいということだが、今日のように偏見に満ちた官僚バッシングが続くようだと、アラン・ブラインダーの警告は実は日本の話だったということにもなりかねま
い。

 (証券アナリストジャーナルMAY2008年号)


 

関東ローム層がけ崩れ実験事故の教訓

 川崎市北部、生田緑地(上の写真)の一角に、なんとも痛ましい事故の犠牲者の慰霊碑が、いまや訪れる人も少なくひっそりと立っている。
 昭和46年秋、全国的に豪雨災害が相次いだ。死者・行方不明者数は8月31日の台風23号、九州東海地方で41名、9月7日台風25号、千葉県で55名、同10日三重県集中豪雨で42名、同26日台風29号、東海地方で20名と多数に上った。特に土砂崩れによる犠牲が多発、社会問題になった。
 こうした背景から、科学技術庁が緊急研究プロジェクトとして、関東ローム層台地が降雨でどの様に崩落していくかを研究する人工崖崩れ実験を企画、11月11日、生田緑地内の崖で実施した。周りにビデオカメラ、計測装置などを多数配置し、崖に水をかけてこれが崩壊する模様をつぶさに観察・記録しようとするものであった。ところが机上で計算して予め計画しただけの量の水をかけても崖はびくともしない。さらに水を追加しても、やはり崖は崩れない。これでもか、これでもかとさらに大量の水が注がれた。すると突然、計画を遥かに超える範囲の崖が、大きく膨らんで一瞬のうちに崩れ、泥流が、遥か遠くの安全なはずの場所で観察していた研究者や報道陣までも呑み込み、15名の方々が亡くなった。実験チームの責任者も殉職され、当時の科学技術庁長官は責任をとって辞任された。
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 バブル崩壊後の景気低迷に対し、この10年来、財政金融両面から空前のマグニチュードでの対策がとられ続けてきている。
 財政面からは、11次にわたり、事業規模合計140兆円を超す経済対策がとられた。その結果、国・地方の政府債務残高のGDP比は平成13年度末132%と、G7諸国中最悪に転落し、かつて最優良を誇った日本国債の格付けはいまやスペイン、ポルトガル以下になり下がり、なお低下が予測される有様。
 金融面でも、通算13次にわたる金融緩和措置の結果、人類未踏の実質ゼロ金利が1年半続いた。平成12年8月に一時脱却が図られたのも束の間、昨年2月に再びゼロ金利に復帰して以降、さらにその上を行けとばかり、いわゆる量的緩和等の様様な新機軸の金融緩和措置が次々ととられ続けている。しかしその効果は見えない、そもそも見えるはずが無い。にもかかわらず、さらなる金融緩和を求める声が益々高まっている。
 こうした昨今の政策論議を聞いていると、何故か30年も前のあの事故が思い出され、頭から離れない。本来今は、経済対策としてはもっと別な構造的対策が求められているのに、旧来の発想で不況の崖を崩そうとして、これでもかこれでもかと財政金融政策の水を注いできた。それでも崖はビクともしない。これに業を煮やして、インフレになるまでもっと思いきり水を注げといわんばかりである。しかし、インフレは一旦勢いがつくと制御不能だというのが,古今東西人類の教訓である。さらに、既に超金融緩和は、年金・保険・各種財団事業等一定の金利収入に依存する社会システムを崩壊させた。アルゼンチン国債購入の損失もその崩壊の帰結の一例。こんな乱暴な注水を続けていて、どこかで、未知の取り返しのつかない何かが起こりはしないか。生田緑地を訪れるたび不安が募る。(尤も、筆者がこう言い出してからもう3年経つが、インフレどころか不況が深まるばかりで、“デフレ対策第一”の大合唱。しかし先見の明はいつの世も後になって判るもの。)

 (建設業の経理 2003年春号)

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