ユーロトンネルと私

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 英仏海峡を結ぶユーロトンネルの開通式から2019年で25周年を迎えました、このページは筆者が不思議なご縁で関わりになったユーロトンネルについてのエッセイと今となっては貴重な写真です

   

 上の写真左が1990年2月訪れたフランス・カレー側の地下工事現場、右が94年5月6日の英国フォークストン式場での開通式モートン会長挨拶で、後ろに座っているのがエリザベス女王とミッテラン大統領です
 以下は(財)都市計画協会刊の雑誌『新都市』平成16年6月号に掲載したエッセイに紙面の都合で掲載出来なかった写真を追加したものです

 ユーロトンネル開通10周年を迎えて
    
はじめに
 日本のテレビでも大々的に報道・中継された、ユーロトンネルの開通式から、平成16年5月6日でちょうど10周年を迎えた。
 皮肉なことに、トンネルの運営会社ユーロトンネル社は、日経ネットによると、“97億ユーロの負債残高に対し僅か8億5700万ユーロの売上しかなく、債務返済が絶望的”という、またまた深刻な経営危機に陥り、4月7日開かれた株主総会でついに個人株主のクーデターがあった由。2003年の決算など経営陣の提案がすべて否決された挙句、経営陣が総退陣し、個人株主が選んだ新経営陣に入れ替わるという、10周年のお祝いどころではない騒ぎのようである。しかし、これによってトンネル自体の存在意義が多少なりとも薄れるものではない。読者の中にも英仏旅行でユーロトンネルの旅を楽しまれた方が多数おられることと思う。
 このプロジェクトと日本との係わり合いは深い。トンネル掘削に使われたシールドマシンは日本製であるし、元青函トンネル技術陣が技術指導にあたった。資金面では邦銀の貸出シェアが当初約4分の1を占めていた(後にユーロトンネル社の経営危機から不良債権化すると、邦銀自身の不良債権処理の必要とも絡んで二束三文で投げ売ってしまったようだが)。
 ここにユーロトンネル開通10周年を記念して、畑違いながら不思議なご縁でこれと係わり、魅せられていた一人の日本人ファンとして、工事風景や開通式参列の模様などをご紹介したい。

英仏海峡トンネルの歴史
 英仏海峡(ドーバー海峡)にトンネルを掘ろうという構想の歴史は遥か昔に遡る。初めはフランス側から英国へ攻め込むためのアイディアで、フランス大革命に先立つこと36年、1753年ルイ15世の時、フランスの地質学者が提案した。その50年後、フランスのマシュー・ファビアという鉱山学者が、換気口、排水口、照明まで完備した、馬車を走らせる海底トンネルの図面を描いてナポレオン一世に提案した。
 平和目的で英仏が共同して両側から掘り始めたのは1878年、ナポレオン三世とヴィクトリア女王の時だが、2キロ程掘ったところで、英国側から英国の純粋性が損なわれるという反対が起こって中断、トンネルは水没した。その後100年間計画は復活せず、1973年再開されかけたが石油ショックですぐつぶれた。
 本当に始まったのは1986年のことで、サッチャー首相とミッテラン大統領の英断により協定が調印され、翌年には工事が開始された。今度は順調に工事が進んで3年余り後の1990年12月には(完成後には補修用トンネルとなる)先進導坑が開通、とうとう英仏が地続きになった(下の写真同社Xマスカードより。中央の写真バックのシールドマシーンは日本製)。それからさらに3年半を経て、1994年5月6日の開通式に至る。
 
 

 構想段階の歴史は長いが、現実的プロジェクトとしてスタートしてからは、僅か8年という超スピードで、この歴史的・世界的大プロジェクトが完成に至ったことは驚嘆に値する。

ユーロトンネルの世界史的意義
 1980年代後半から90年代初頭にかけては、世界の歴史の大きな転換点であった。
些か薀蓄を傾けさせて頂くと、20世紀に限らず、世界史の大きな潮流変化を象徴する歴史的出来事は、毎世紀、西暦の下二桁88、89あたりに起こるというジンクスが発見される。
 1588年はイスパニア無敵艦隊敗北、これは世界の覇権が、イスパニア・ポルトガルというカトリックの旧世界からイギリス・オランダというプロテスタントの新世界に移る、中世の終わり、近世の始まりを象徴する出来事。
 1688,89年は、そのイギリスで世界に先駆けて立憲君主制が定着して行く名誉革命・権利の章典、1789年は説明を要しないフランス大革命である。1889年は、大日本帝国憲法発布など日本が近代国家としての体制を整え列強に伍していくはじまりであると同時に、ヨーロッパでは、この前後にヴィルヘルム二世が即位するなど第一次世界大戦の役者と舞台が揃っていく、いずれも20世紀の予兆が現れてきた時期である。
 20世紀もまたこのジンクスが繰り返され、1989年10月ベルリンの壁が崩壊、翌年両独統一が実現した後、91年4月の欧州復興開発銀行の創立、12月のソ連邦崩壊、93年初からのEU統一市場の完成と、冷戦終結、ヨーロッパ統合への熱狂が盛り上がっていった。
 1066年のノルマン征服、14,5世紀の百年戦争、18世紀のイスパニア王位継承戦争、19世紀初頭のナポレオン戦争などなど、長年にわたり対立抗争の歴史を繰り返した英仏両国が、協力して幾多の社会的・政治的・経済的困難(後述のように技術的な困難は、もはやこの時代になると、さほどではなかったが)を克服しながら完成したユーロトンネルも、その大きな世界史上の転換を象徴する時代の産物である。
 
カレー側工事現場見学
 ユーロトンネルの建設が最盛期にあった1989、90年、筆者は、旧東欧諸国の経済復興支援など、こうした世界史の潮流変化に取り組む仕事をしていた。かねてから、大規模プロジェクトに賭ける技術者魂のロマンに魅せられていた感もあるが、ユーロトンネルには、これを遥かに超えた、歴史感的感動を覚えており、何とか一度この目で工事現場を見てみたいと願っていた。その夢叶って、90年2月、以下ご紹介するように、工事たけなわのユーロトンネル、フランス、カレー側の地下現場を見学することができた(下の写真が現場のいわば飯場事務所入口で、右に英仏両国を代表する王様、英国ヘンリー8世(手前)とフランスフランソワ1世の人形が立っています)。
 
   

 ユーロトンネルは地下部分の総延長は49.2kmと青函トンネル53.85kmに次ぐ世界2位であるが、海峡部延長は37.5kmと青函(23.3km)を抜いて世界一と、両者仲良く世界一を分け合っている。一方工事の難易度という点では、衆目の一致するところ、青函の方が遥かに難工事である。ドーバー海峡は厚い良質のブルーチョークの地層が、さしたる悪断層も無しにカレーから英国フォークストンまでの海底に続いており、これを日本製のシールドマシンで掘り進む。地盤が良いので、アクアラインと異なり、コーティングは後でゆっくりやればよい(写真下左)。
   

 人の頭位の大きさの青白い、べっとりとした“ずり”は、8両編成のトロッコ列車で、切端から、カレーの大きな地下基地に運ばれる。線路の終点の下は、直径がちょうど列車一編成分の大きな井戸になっている。列車がその直径上におさまると線路を切り離し、列車の両端を固定して線路毎逆さまにし、中身を井戸の中に明ける。列車を上向きに戻したところで再び線路をつなぎ、列車は切端へ帰っていく(下4枚がトロッコ終点の模様です。
   
   
 その後で井戸に注水し、かき混ぜると石灰岩が水に溶けドロドロの溶液になる。これをパイプラインでカレーの山の上までポンプアップし、山上のダムの中に注ぐ。堰堤から僅かに青みがかったきれいな水(トレビの泉のような、石灰質を含んだ水)が抜けて山の上に次第に固い土地が造成される。といった具合に流れ作業でトンネルが掘れていく。ハード面では実に理想的な工事だと感心した(下8枚の写真の上段。第2段以下6枚は概成していた地上のトンネルカレー側入口で、第2段右で見える大きな2本が本トンネル、右上の小さなのが90年12月に開通する先進導坑。最下段がトンネルの中)。
 
   
   
   
   

 この見学がご縁で、日本におけるユーロトンネルの精神的支援者兼PRボランティアという立場になった。

開通式に招待
 
こうした思いが通じたのか、94年4月のある日、思いもかけず、“エリザベス女王陛下とミッテラン大統領閣下のご来臨のもとに5月6日執り行われる開通式典に貴殿のご出席を賜りたい”という重々しい口調の招待状(下写真)が届いた。“生涯の思い出”と、万難を排して出席することにした。
 

 式典は、まず仏側カレー、次いで,英側フォークストンと場所をかえての一日がかりのお祭りである。
 私が招かれた英側会場の場合、ロンドン、ヴィクトリア駅に午前8時30分までに集合。招待状を提示して、厳重にガードされたホームに入り、特別列車の予め指定された号車の前にいくと、係りの女性がパスポートを、事前に登録しておいた番号と照らし合わせる。本人確認(大使が信任状を提出するという意味で使われる“accredit”という荘重な言葉が使われていた)が済んだところで、バッジと式次第、食事のメニュウ、記念品などの一式を貰って乗車(写真下2枚)。
   

 英国国鉄にしては極めて異例のことながら、案内状にある通り午前8時51分ジャストに発車。車内では英国各地から集った、バッジの肩書欄に”株主様“と表示された、着飾った善男善女が、はしゃいでいる。
 車を乗せて海峡を渡るシャトルトレインは、英仏海峡の両岸、カレーとフォークストンの引込み線の端に建設されている巨大なターミナル駅を発着するが、ロンドン・パリ間の直通列車ユーロスターはターミナルを通らないで直接トンネル内を出入りする設計になっている。我々の乗った特別列車はロンドン出発後1時間程で、まずトンネル内の切換ポイントの先まで乗入れ、一旦停止後、ポイントを切り換えて、バックでフォークストン・ターミナルへ到着。ここからバス数十台のピストン輸送で旅客ターミナル近くの会場へ(下の写真上段左)、途中、女王陛下ら英国側VIPを乗せてウォータール駅から来たユーロスターがトンネルに入るのが見えた。 中央のステージを囲んで155台の10人テーブルを収容した巨大なテントで、10時半頃からシャンパンを飲みながらバンド演奏を聞いて待っている(写真上段右と下段左右)。
   
   

 1時間程経ったところで、ステージ中央の特大25枚パネルのスクリ−ンに、カレーターミナルの模様が映される。ミッテラン大統領を乗せたパリからの列車と女王陛下の列車とがカレーのホームに両側から同時に到着、先にホームに降り立った大統領が女王陛下を出迎えるところから式典が始まる。女王陛下もここフランスではフランス語でスピーチされる。
 
   
   

 式典が終わったところで英仏両会場とも昼食となる。こちらの英国側は、子羊、スモークトサーモン、デヴォンシャークリームなど英国を代表する各地の名産をバランスさせた愛国的メニュー。
 飲物は、流石に英国産オンパレードとはいかなかったが、英国赤ワインも、デンビイ・ピノ・グリ1992というのが1種類登場していた。面白いことにシャトー・ラ・トンネ−ユ(Tonnelle)というフランスワインがあった。日本人である筆者はトンネルに因んで選んだユーモアだと思ったが、周りの人に尋ねても要領得なかった(彼らからするとTunnelとは綴りも音も違うのでトンネルとの連想が働かない)。でも、未だにそうではないかと思っている(下にメニュウ)。
 
 

 昼食後再びバスでフォークストン・ターミナルのホームにしつらえられた大仮設スタンドに移動、向いのホームにカレーから女王、大統領ご一行を乗せた列車が到着するのを、近衛工兵軍楽隊の演奏が続く中暫し待つ(下2枚の写真、左の左下に日本からの代議士先生お二人が鯉幟を持って参列しておられました)。
 
   

 そこへ大型車用のシャトルを連結したユーロスターがしずしずと到着。中からお二人の乗ったローロスロイスがホームにと姿を現す。降り立ったお二人は、ホームに整列した地元関係者、工事関係者等に一人ずつ握手。上空を英国空軍の誇るハリヤ−、トーネイド−、ハーキュリーズの編隊が祝賀飛行(下6枚の写真)。
 
   
   
   

 歓迎式典がすむと、お二人は再びロールスロイスで、我々はバスで先ほどのテントの隣にある式典会場(下6枚の写真上段左と中段左右)へ移動。ステージ正面のメーンスタンドにサッチャー前首相が、黒いドレスに白い固い麦わら帽というシックないでたちで着席すると盛大な拍手が沸き起こった(上段右)。ご自身の人気も未だ衰えていないが、当プロジェクト最大の功績者でもある。
 
   
   
   

 まず、英国側共同会長のサー・アラスター・モートンが“エリザベス2世女王陛下は、英国史上初めて、英仏海峡の海の下を生きて往復した君主である”と挨拶、喝采を浴びた(写真下段左と表紙右)。女王は今度は当然英語で挨拶されたが、大統領は今度もフランス語。女王のスピーチがお立場上儀礼的なものなのをいいことに、自らは、当時欧州統合のさらなる進展にやや慎重な姿勢をとっていた英国を暗に批判する、“一つの欧州賛美論”を政治色剥き出しで熱弁を振るう。フェアでないと言う印象だった。その後お二人で記念碑の除幕をして式典は無事終了。
 この後再びもとのテントの席に戻って、英国名物のハイティー。ティーとはいえ、苺のボウル、各種サンドイッチに名物スコーン、ケーキ各種と豪華メニュー(前出メニューの右側)。
 午後5時お開き、もとの列車でロンドン・ヴィクトリア駅に午後7時帰着、一日がかりのお祭りが終わる(上の写真下段右が車中からで、左上に用が済んだシールドマシンが展示してあるのが見えた)。バス乗場で往きの列車で見かけた株主殿夫妻が、開封していないシャンパンの大瓶と、ターミナルの歓迎式典で貸し出していた大きな青白のパラソル2本を、戦利品のごとく抱きかかえて、いそいそと家路を急ぐのに出会った。日本でのNTT株と同様、ユーロトンネルの株式募集は株式の大衆化を飛躍的に進めたが、当時その株価が相当値下がりして、恨みを買っていた時期なので、こうして元を取ってやれとの心境だろう。英国紳士にも色々いる。
 ところで、翌日から別の用事でロンドンとパリを歩いて感じたのは、トンネル開通に対しての英仏の温度差であった。フランス側は報道も、パリの街も熱狂的祝賀ムードであった。これに対しロンドン側は冷めていて、始発のワーテルロー駅の周りにも、どこにも“ユーロトンネル・グッズ”など何一つ見当たらなかった。当日朝のテレビも開通式があることは報じていたが、これに関連して“イギリスでは絶滅した狂犬病が、トンネルを通って鼠が運んでくる恐れがある。防止装置はあるがそれで大丈夫か”という特集をやっていた。トンネルに接続する国内線の英国側の改良が大幅に遅れているのもこうした温度差の反映であろうが、時と共に英国側でもトンネルの利便が無くてはならないものと認識されていくであろうと思った。

 開通式後も、トンネル運営会社の経営は、火災の発生などの不運もあり、苦難の連続である。
 しかし、式典当日受け取った赤と青の房のついた式次第冊子の第一ページ(前出招待状の右)に、
“来るべき年月の内に人々は、我々はどうやってこれまでこのトンネルなしにやってきたのだろうか?と思うようになるだろう” と書いてある。開通後10年にして、既にこの予言はその通り実現している。このプロジェクトこそ激動の20世紀末を象徴する偉大な事業の一つであると確信すると同時に、遠い日本にいて、僅かの期間ではあったが、これにご縁を得た幸運に感謝している。


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