八王子絹の道コラム付き

 

 何度も歩いている八王子絹の道(表紙の写真石柱)ですが、金融ファクシミリ新聞の1月号のコラムで取り上げたこともあり、京王相模原線南大沢からスタートしてJR横浜線片倉駅で上がる定番ルートを確認しながら歩いて見たのでご紹介します
 南大沢駅改札を出て右、東京都立大学の正門前を左折して遊歩道を進み、キャンバスが切れて暫く先の二股を右に、鑓水公園・鑓水2丁目方向の道案内に従って只管進みます。30分程で下の写真最上段左右の鑓水中学校の前に出ます。ここで少し寄り道して左の山へ入り鑓水公園を抜けます(第2段左右)。公園を出たら右手に廻り込んで下って行き、写真第3段左右の小泉家屋敷の前を通り過ぎて、駅から直接来る道に合流、左へ大栗川へと下ります。谷戸入口の交差点のすぐ下が嫁入橋で、川沿いに登ると次の橋が御殿橋、これを渡って絹の道へ入って行きます。300m位先の右手に最下段左右の絹の道資料館があります。絹の貿易で富を築いた鑓水商人八木下要右衛門の屋敷跡だそうです

   
   
   
   

 資料館から100m程で絹の道山道に入ります(下6枚上段左右)、この辺りから往時の絹の道のたたずまいが保存されています(中・下段)。下段右の奥に表紙の石柱のある鑓水道了尊跡が見えてきました

   
   
   

 下8枚が鑓水道了尊跡です。筆者が最初に訪れた頃にはまだ崩れかけた建物が残っており、毒蝮三太夫が奉納した額などがありましたが、いまや跡形もなく、遺構だけが残っています。第2段右が正面から、最下段左が裏側から。裏側にこの高台(大塚山の三角点)があり(最下段右)、木に大塚山標高213mという札が結んであります。

   
   
   
   

 右側へ廻り込んで階段下へ戻り、登ってきた道に向かって右側へ進みます。左手に鉄塔が見えるところを過ぎると下4枚上段右の様に八王子方面の眺望が開けます。上段右の写真の右下に写っている道標に従って左折して200段ほどの階段を下ります(下段左)。下段右が階段下から振り返る眺めです。これを登るのは結構大変です。ここから右へ下って間もなく16号バイパスを高架人道橋で渡り、ともかく下へ下へと下ってJR片倉駅へ出ます。南大沢から片倉駅までこのルートでのんびり歩いて約2時間半です

   
   

 参考までに筆者が業界紙に掲載したエッセーを載せておきます

八王子絹の道

JR東神奈川駅の壁面に「横浜港生糸貿易と横浜線開業」の解説板がある。これによると横浜開港3年後の1862年には、横浜港の輸出品目の80%超を生糸が占めていた。横浜では生糸貿易の大商人が誕生、主に上州や信州を産地とする生糸を諸外国に輸出することで莫大な富を手に入れた。

 その生糸の中継基地として賑わったのが八王子であり、中でも現在文化庁選定「歴史の道百選」で「絹の道」として面影をとどめている八王子市鑓水と、鑓水商人と呼ばれた豪商たちだった。このように、八王子~横浜のルートは、日本の生糸貿易の中でも非常に大きな役割を担う「絹の道」だったのである。

 明治時代に入り、1872年に新橋~桜木町間で日本初の鉄道が開業すると、横浜と八王子の生糸貿易商たちは「絹の道」への鉄道開設に多大な関心を寄せ、まず1886年に横浜・原善三郎(横浜三渓園で知られる原三渓の先々代)、八王子・谷合弥七を代表とする13名の発起人が八王子~川崎間に「武蔵鉄道」を敷設申請したのを皮切りに、計6度の申請を重ねた。最後の申請には、生糸資本家だけではなく、沿線である八王子、相模原、町田などの有力者が出資者に加わり、さらに国の買い上げにより将来国有化される事も受け入れるといった条件を付した上で漸く認可されるにいたり、ついに1908年9月23日に東神奈川~八王子間で開業した。このようなローカルな地域での鉄道としては異例の早期に開業したのにはこうした歴史がある。その後国により買い上げられ、国鉄時代を経て、今日のJR横浜線となっている。

平成初年まで横浜線中山駅前にあった蕎麦屋の壁には、「絹の道を往きは荷物を背負って、帰りはお金を懐に抱いて歩いた商人たちが途中の峠で追いはぎに会って身ぐるみ剥がれたり、宿場女郎に騙されてお金をとられたりしたので、鉄道敷設を請願した」とユーモラスに書かれていた。(金融ファクシミリ新聞2026年1月14日号コラム「政経論風」原稿)

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