多摩よこやまの道
先ず、コース中最高の展望スポット「防人見返りの峠」(標高145m)からの南西から北東にかけての(丹沢山系、秩父山系、狭山丘陵、天気が良ければ背後に富士山や南アルプス農取岳、塩見岳なども見える)パノラマ2枚と弓なりのコース全体の案内板を載せます
平成26年9月16日、10年以上振りに鶴見川源流の泉から山道を北へ多摩丘陵に登ったところ、尾根幹線道路や、大妻学園、KDDI等の建物が完成し、見違える様になっていました。ランドマークともいうべき別所配水場の搭の下に「多摩よこやまの道」の案内板を見つけ、この日は時間が無く途中の多摩市総合福祉センターの左から多摩センター駅に下りましたが、その後すっかりはまってしまい9月末から11月文化の日の連休にかけて集中的に探検しました。
ご紹介するのは11月2日、京王相模原線の若葉台からスタートし、多摩東公園から別所配水池まで全コース10kmを縦走した後鶴見川源流の泉に下り、小山田バス停を抜けて、養樹院、神明神社、小山田1号遺跡経由で町田市の尾根緑道を横切り、常盤で町田街道を横切って横浜線矢部駅へと歩いた駅to駅コースです。写真は好天の翌々4日に撮り直したものを一部入れています
多摩よこやまの道のいわれですが、案内板の記述をご紹介します
「多摩丘陵は武蔵の国府(府中)から眺めると横に長く連なる山々でした。夕暮れ時にシルエットとして浮かぶその美しい姿は、万葉時代、「多摩の横山」「鷹引き山」などとも呼ばれていました。この高台に伸びる尾根道には鎌倉古道(鎌倉街道早ノ道、上ノ道本路、軍事戦略鎌倉道)や奥州古道、奥州廃道、古代の東海道などの重要な歴史街道(古街道)が南北に交差し、その痕跡が各所に残され、また様々な伝説等も語り継がれています。古代〜中世〜江戸時代にわたって政治、軍事、文化、農業、社寺参詣などを目的として、東西両国間の公益を行う商人や武士団、諸国霊場を行脚する順礼や都の貴人・官人、また幕末には新撰組ゆかりの人々も行き来したと推測され、歴史とロマンを感じることのできる道です」
若葉台駅から15分弱でスタートの多摩東公園に出ます。ここから南西に尾根道を辿ります、下にスタート附近からの紅葉風景を4枚並べます
下3枚はスタート直後の道の雰囲気と最初の交差「瓜生黒川往還」のポストのある紅葉の広場です
万葉集では、望郷や別れを惜しむ道路として「多摩の横山」が謳われています。古代、国防警備の目的で北九州に配置された防人は東国から陸路で都へ、さらに難波津から船で瀬戸内海を通り、九州へ向かいました。
万葉集巻20に豊島郡からの防人の妻の歌として
赤駒を山野に放し捕りかにて
多摩の横山徒歩(かち)ゆか遣らむ
とあります 万葉集の歌に触れる度に思うのですが、8世紀の昔に教育も財産も無い庶民が、こんなにも豊かな感性を和歌に残して今日に伝えているとは、いかに我日本の文化程度が高かったかということを、若い人達に知って貰いたいものです
その防人に因む最高の展望スポット防人見返りの峠、パノラマは最初に載せましたが、後2枚並べます
何度も通りながら富士山が写真に撮れませんでしたが、令和元年10月13日台風19号の翌日台風一過後に来てやっと撮れた(頭に雲被ってますが)のが下3枚です
展望スポットを後にして(下左)、分倍河原合戦と県境の尾根、小野路町別所と多摩市永山の境界にあたり、古道が集まる五差路(下中、奥は国士舘グランド)(この内「軍事戦略的な鎌倉道」と云われる道は、古戦場伝説や古道が別所の高台(三社大権現、富士塚古墳)を乗り越えて、野津田や金井、本町田へと続いています)を過ぎ、妙櫻寺(下右)で一般道に出ます
お寺の前にある「鎌倉古道(鎌倉7街道の中の最重要路である、鎌倉街道上ノ道本路)跡」のポストを見て、一般道を恵泉女学園前(上段左)から暫く歩くと左側に一本杉公園入口(上段右)があります、公園内には先程の防人の妻の歌碑(下段左)、旧有村家(下段右)などがあります
回り込んだ出口に鎌倉裏街道のポストがあり、それによるとこの道は多摩市一ノ宮にあった多摩川の渡河点から愛宕団地の愛宕の切通し、豊ヶ丘北公園を通って小野路の宿に続く中世の鎌倉街道のひとつで、関戸にあった関所を通る煩わしさを避けた道とも考えられます。江戸時代には日野往還や小野路道ともいわれ、後に新撰組となる、土方歳三や沖田総司らが小野路での出稽古に日野宿方面から通った道でもありました。
公園を出て、野球場入口前の青木場通りを左の西順路へ入りますが、野球場に沿うように南へ下る急な細い舗装道路を行くと小野神社から小野路の宿へ出られます(7月に多摩センター駅から小野路、野津田公園、町田牡丹園、恩田川、田奈と歩いた時に通りました)
奈良・平安時代に都と東国を結んだ官道「奥州古道(国府街道)」が多摩丘陵を越えるルートには西から「常盤道」「長坂道(奥州廃道)」「中尾道」がありました、
中尾道は、足柄や箱根の峠から厚木を経てこの辺りを通り、落合の白山神社(多摩センター付近)から府中、さらに北上して奥州へと向かっていた官道のひとつです。現在でも下小山田の白山神社前〜東谷戸〜中尾の急坂〜この近くの小野路浅間神社にかけて古道の面影が残っています
下左が奥州廃道(長坂道)のポストで、「この先のゴルフ場の中には、かつて長坂道といわれた往還道がありました、元々この道は都人が歩いた「奥州廃道(最も古い奥州古道)」とあります
ゴルフ場を過ぎ、総合福祉センターとリサイクルセンターの間で再び反対側左の山道に入ると、間もなく南方小山田緑地への分岐点です(下中央)。緑地へは東京国際CCの敷地内を抜けていくような路です。この辺りもともと平安時代は、朝廷直営の馬の牧でした。その別当だった秩父平氏の一族小山田有重が頼朝の御家人となり、この辺りの領主となりました。居城は、小山田緑地の西にある大泉寺で、今でも一族の墓所です。有重の3男重成は頼朝の側近、4男重朝は流鏑馬の指導者ということで、吾妻鏡にも登場する鎌倉武者です、さらに5男行重(行幸とも)は山梨県都留市を所領し、武田二四将のひとりとして活躍、武田氏滅亡とともに大月岩殿城で滅亡した小山田宗茂の祖先といわれています
小山田緑地への分岐を通過して間もなく、右手崖下に唐木田の車庫が見えてきます(下右)
この辺からは大妻学園(上段右)の領域ですが、何と二子玉川から移転したわが母校東急自動車学校がありました(上段左)、そして終点別所配水池の給水塔(下段左)です、ここから南へ林の中の急斜面を下ると鶴見川源流の泉に出ます(下段右)
ここから少し車道を下って右に入り小山田のバス停の広場を横切り、淵野辺方面へのバス道を少し歩いてから左の小路へ入り、養樹院(上段左)、神明神社(上段右)、小山田1号遺跡(下段左右)を見ながら、あとはバス道を横浜線矢部駅まで歩きました、途中常矢橋で境川を渡ります(小山田バス停から矢部駅まで、途中寄り道して約45分です)
万葉時代以来の歴史とロマンを探りながら、多摩丘陵の南側(町田市、川崎市)北側(多摩市、八王子市)の風景を眺めつつ、開発された多摩ニュータウンと尾根沿いに残された里山・農村風景ともふれあえる趣ある遊歩道です、是非一度お試し下さい