浦賀駅から燈明堂跡・ペリー上陸記念碑へ

 

 東京湾に入口に位置する浦賀の歴史は古く、遠く原始時代まで遡りますが、戦国時代には北条氏の浦賀城が築かれていました。江戸時代にその地理的重要性が再認識され、1720年に浦賀奉行と江戸方面への船の出入りを監視する舟番所が置かれました。浦賀港は幅160~240mですが奥行きが1kmある天然の要害です 
 上のマップAの浦賀駅からスタート、平成15年に閉鎖されたかつての浦賀の柱浦賀ドック(住友重機浦賀造船所)の前を通り、湾の西側を南下して渡船船着き場(B)、陸軍桟橋(C)を経由、トンネルの手前を左折して燈明堂跡、再び戻ってトンネルをくぐり久里浜港沿いにぺりー記念公園を見てから平作川沿いに京急久里浜駅に歩きます
 先ず下の6枚渡船の船着き場までです、このメニュウの浦賀から観音崎コースにも一部載せています

   
   
   

 さらに南下、終戦後海外からの多くの引揚軍人などを乗せた引揚船が着いた陸軍桟橋(下の写真上段、第2段、第3段右、最下段左)を、対岸に東叶神社(第3段左)見て、左側マリーナ(最下段右)の前を通り過ぎトンネル手前の燈明堂入口バス停で左の脇道へ入って行きます

   
 
   
   

 浦賀燈明堂は奉行所開設よりもなお古く江戸時代初期の慶安元(1648)年に江戸湾に入る船の航行安全のため設けられ、以後明治2年に近代式観音崎灯台が完成するまで220年余海を照らし続け、明治5年に役目を終えました
 下の写真上段左がかつてお仕置き場だったあとの供養塔、同右から第2段、第3段、第4段左が解説板と房総方面の眺め、第4段右から第6段までが復元された燈明堂を反時計回りで色々な角度から、最下段左右が北側下の岩場から振り返る浦賀・観音崎方面です

   
   
 
   
   
   
   

 海伝いは行き止まりで行けませんので、元の道へ戻り、川間隧道(上段左)をくぐって久里浜港方面へ歩きます、すぐ左手に消防総合訓練センター(同右)があります。中下段が久里浜港とペリー通り、下段右が平作川開国橋です。

   
   
   

 その先右手にペリー公園があります、上段左右と中段左が海側から、中段右が後ろから、下段が案内版です

   
   
   

 最後に資料的意味で2枚ご紹介します、たった4はいで夜も眠れかった蒸気船は、上の絵(浦賀中学美術部生徒作で駅を出たところの塀に掲げられている)のサスケハナ、ミシッシピ、プリマス、サラトガです
 下は筆者の講演でもご紹介しているペリーの日本遠征記のレリーフで、場所は少し離れますが、横須賀市安浦の横須賀商工会議所玄関ホールにありますが、日本人の優れた資質を見抜き「日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技能を有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバルとなるであろう」と予言しています。ペリーは立派な識見のある人だったのだと思います

 
 

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